【諺から考える健康学 57】 

『柳は緑花は紅(やなぎはみどりはなはくれない)』という諺があります。 これは、「理にかなった自然のあるがままの姿をいったもの。当たり前のことのたとえにもいう。また、物にはそれぞれ特性があることのたとえ。春の景色の美しさの形容としても用いる。」という意味です。 昨今、自然の恵みを切々と感じることが少なくなって来たのではないでしょうか? 外に出れば、自然の息吹を感じることができるはずの呼吸が、マスクによって邪魔されたり、 誰もいないところでようやくマスクが外せる、と思えば、PMの濃度が濃すぎて喉や目がイガイガしてきたり、 のんびり過ごすために旅に出ても、こんな山奥にもWi-Fiが!と思われるほど電子機器の使用が完備されていたり、 などなど、自然のあるがままの姿を本当に感じる機会というのが稀有になってきているような気がします。 そうなると、人間の感覚というものは、少しおかしくなってくることがあります。 「不自然な状態が、自然な状態」と思い込んだり、「感性など無駄なもの」と、知性偏重主義に陥ったりと 人としての感覚を失ってしまうことも多々あります。 結果、あり得ないような犯罪を犯したり、人の不幸を喜んだり、人を貶めることで喜びを感じたりなど、人として悲しい状態になっていくことが多いのではないか?と私は思います。 やはり、自然の豊かな恵みを素直に感じ、人々から頂く愛情を感じ、そして、人々が幸福そうに喜んでいる姿を見て自らも喜びを感じられるような、『当たり前の感覚』を持って生きていくことが大切だと思います。 この、「当たり前のことを当たり前に感じる」ということなくして、人としての成長はない、と思うのは私だけでしょうか? 皆様はどう思われますか? 健康においても如り、であります。 健康であり続ける、というのは大事なことですし、人間である以上、それを実践していかなければならないのですが、この「健康である」ことの感覚もおかしくしてはいけないのですね。 病気をしていなければ健康、 どこにも痛みや不調が無ければ健康、 そう思っていたのに、急転直下、大病を患うということはよくあります。 これは、一種の「健康感覚の麻痺」でもあるのです。 「健康だと思っていたのに…なぜ…」 というのは、健康ではなかった、というだけの話です。 健康感覚を麻痺させないために大切な事は、『身体の声を聞く』という事です。 客観的に見て、無理、無茶な生活を送っていれば、症状がなくてもそれは、健康ではないのは当たり前ですね。 身体は、必ずサインを送っています。 それを、聞き逃さない、見落とさない感覚を取り戻す必要があるのですね。 これは、先程の『自然の恵みを感じる』という事にも繋がっていきますが、「当たり前のことを当たり前だと認識できているかどうか」という事を常々チェックしていく必要が、現在の世の中にはあるのだ、という事を知らなくてはならない、と私は思います。 朝起きて元気はつらつな身体の細胞を感じて、「ありがとう!!」って言える、 綺麗な花を見て「いつも綺麗に咲いてくれてありがとう!!」と言える、そんな 自分になっていきましょう。