諺から考える健康学 92

【諺から考える健康学 92】 『天を恨みず人を咎めず(てんをうらみずひとをとがめず)』という諺があります。 これは、「自分が不遇であったり、苦境にあるからといって、運命を恨んだり他人を咎めだてたりせず、自分の末熟さによるものと反省して修養に努めるということ」という意味です。 今年一年を振り返って、社会現象においても、様々な逆転劇のような事件や出来事が多かったように感じます。 これらのことによって、飛ぶ鳥を落とす勢いのような方々が、奈落の底に落ちるかのようなことがあったり、そこまでいかなくても不遇な状況に追いやられたりなど、多々あったかと思います。 異常気象に象徴される自然現象であっても、そのような事象が多くあったかな、と思います。 急激な気温の上がり下がりや、気圧の大きな変動、晴れ間から一転してゲリラ豪雨など、こちらも社相を体現しているかのようなことも多かったと思っています。 「何でこんなになるかなぁ…。神様に見放されたんちゃうかなぁ」と思われる方々も多かった事でしょう。 しかし、これらの事には、すべて原因があるのではないかと、私は思っています。 ざっくりと推測するなら、地位や名誉を得て有頂天になってしまっていた事や、社会的な立場が上がり、部下や社員などを駒のように考えてしまっていた事や、科学技術やITの進化により、神的な感覚になってしまっている事など、いろいろあるでしょうが、全てに共通しているのは『奢り』ということではないのでしょうか? でも、よく考えてみれば、台風ひとつコントロールできないような人類であるわけですよね。 神様からしたら、私たちがアリさんを見ているのと同じ感覚なのではないでしょうか? 「小さいのに一生懸命働いてよく立派な蟻の巣を作ったね」的な感覚で、「小さいのによく頑張って文明、文化を作ったね」くらいのものでしょう。 そのように考えると、私たちの『奢り』などナント、浅はかなものなのではないか!?と思ってしまいます。 諺通り、奢りによって出鼻を挫かれたとしても、学びのチャンスだと思って、真っ当な軌道修正だと思って、反省して謙虚さを学んでいけば良いのだと、私は思います。 皆様はいかがお考えでしょうか? 健康においても如り、であります。 どんなに健康であっても、また、豊富な健康に関する知識を身につけたとしても、永遠に健康を保持し続けるというのは、至難な技ではありません。 さすれば、日々、生かされていること、健康で過ごせていること、病気であってもすぐさま命を奪われる状態でないことなどに、心から謙虚に感謝していくことが大切なのではないでしょうか。 毎日同じように過ごせていることが、実は奇跡のような、「有り難き日々」だということを自覚しなくてはいけないのではないでしょうか。 拙書「心主身従」にも触れておりますが、「生かされていることへの感謝」と「生きていることへの感謝」、この2つがあって「生への愛」であるのですね。 謙虚さからの発展でもあり、これらはとても大切な事だと、私は考えています。 皆様はいかが思われますでしょうか?